
目次
第1章:政治家がカネで動くなら、角栄はもっと早く墜ちていた。
本当に5億円を、角栄は欲しかったのかと思う?
5億円など、角栄にとっては、50万円くらいの価値しかないと俺は思っていい。
- 年間数十億円単位の派閥運営費
- 地方支援、選挙活動、後援会対策に必要な資金
5億円は“補助金”に過ぎなかったという現実。
俺は、角栄を、金で動くような政治家には、どうしても思えない。
政治は、雪との闘いだ。
新潟を愛した、普通のジジイではないか?
そんなジジイが、22時に就寝して、2時に起床して、各省庁の予算を、紙と電卓だけで頭に叩き込むことなどできないはずだ。
第2章:「寝耳に水」で逮捕された角栄
事前説明なしの突然の逮捕。
恐らくは、検察も、詳しい事情をしらないはずだ。
ロッキード社が、田中角栄に金を渡したという事実は、状況証拠しかない。
田中角栄自体も、なんで逮捕されたのか、わからなかったはずだ。
捜査は、アメリカ司法局の主導で、行われている。まさに、東京裁判が、復活したようなものだ。
前回、アメリカから、日本の首相にはふさわしくないと思われたから、抹殺されたことを記載した。
しかし、角栄が、見ていたものは、俺は、吉田茂の背中だと思っている。
第3章:「吉田茂」のワンマン政治
これは、有名な話で、道路さえも作ってしまう。
吉田茂の「ワンマン道路」は、神奈川県横浜市戸塚区にある国道1号のバイパス道路を指す俗称だ。正式名称は戸塚道路で、かつて有料道路でした。
この道路は、当時の首相であった吉田茂が、戸塚駅周辺の国道1号と東海道本線の踏切による渋滞(特に「戸塚大踏切」)に困り、建設を指示したことから「ワンマン道路」と呼ばれるようになりました。
違う。国会に行くときの渋滞が嫌だっただけの、頑固ジジイだ。
吉田茂も、賛否両論がある首相だ。
しかし、吉田茂の信念は、平和と講和、日本がどのような手段で、真の独立を成すか。この一言に尽きると思う。
アメリカが押し付けた憲法には、第9条に軍事力は保持しないと記載されているにも関わらず、朝鮮戦争が始まると、GHQは、再軍備を嗾けてくる。
吉田茂は、拒否し続けるが、それが講和の条件でもあった。
警察予備隊から、保安隊、そして、自衛隊と、事実上の再軍備をするのである。
第4章:サンフランシスコ講和──裏で支えた池田隼人と宮澤喜一
1951年9月8日、戦後日本にとって最大の外交転換点となる「サンフランシスコ講和条約」が署名された。
この条約は、日本が連合国の占領から脱し、主権国家として再出発するための、いわば“戦後のゼロ地点”だった。
だが、舞台裏には、複雑な交渉と取引、そして「見えない力学」が存在した。
🧭 吉田茂の戦略:「講和と安保を同時に」
当時の首相・吉田茂は、アメリカ主導の国際秩序の中で、日本がどう「最小限の被害で最大限の主権」を回復するかを緻密に考え抜いていた。
彼が選んだ道は、“二枚舌外交”とも言われる「講和条約と日米安保の同時締結」である。
表向きは「独立の回復」を掲げながら、裏ではアメリカと安全保障条約を結び、事実上の“従属的自立”を受け入れる。
この外交的な綱渡りを成立させるために、吉田の背後で汗をかいたのが、池田隼人と宮澤喜一だった。
💰 池田隼人──「金」で講和を実現した男
元大蔵官僚の池田は、アメリカに対して「日本はもう自立できる経済力がある」という“数字”を根拠に交渉を展開した。
彼は、日本の財政再建・通貨管理体制を整備し、占領下でも財政主権を守る仕掛けを作った張本人である。
講和交渉においては、戦後賠償やインフラ支援などの「経済交渉」を担当し、「日本は戦争責任を経済的に果たす」とアピールした。
池田はまさに、“金で独立を買い戻した”交渉人だった。
🧠 宮澤喜一──「理屈」でアメリカを納得させた知性
一方、東大法学部出身のエリート官僚・宮澤喜一は、法的なロジックと国際政治の構図に精通していた。
彼は外務省の若手ブレーンとして、国際法上の主張の整理、ダレス(米特使)との交渉、各国の支持取り付けを担った。
「どこまで譲り、どこで踏みとどまるか」その境界線を綿密に計算し、吉田のワンマンを、理屈で“下支え”したのが宮澤だった。
🤝 3人のトライアングルが作り出した“戦後外交の雛型”
- 吉田茂:国家の大戦略を握るリーダー
- 池田隼人:「金」で交渉を有利に進めた財務のプロ
- 宮澤喜一:「理屈」で国際社会を納得させたインテリ交渉人
この3人の“奇跡的な分業”があったからこそ、サンフランシスコ講和は実現した。
わかるか、池田君、人の知らないところで、1歩進める。これが外交だ。よくやった。
角栄の独立外交──5億円よりも価値あるもの
角栄は、日本国民から「よくやった」と言われたかった。
その象徴が、日中友好条約である。
日本の独自外交への苛立ち
日中平和友好条約は、田中角栄の1972年の電撃訪中と日中国交正常化を受けての延長線にあり、これにより日本はアジア外交で主体性を発揮し始めました。
アメリカは、特にロッキード事件以後、日本が「勝手に動きすぎる」ことを危険視するようになっていたため、福田赳夫内閣による条約締結にも内心快く思っていなかったという記録もあります。
🧩 角栄と“東アジア外交の主導権”
1972年の角栄訪中、1973年の中東外交──「アメリカを経由せずに動く日本」という構図は、角栄時代に始まっていた。
オヤジ(吉田茂)、俺も、日本の真の独立のために、やってるぜ。そう角栄は言っていると思う。
──角栄の種を、福田が刈り取った。それが「日中平和友好条約」である。
角栄が見据えたのは、「東アジアの安定と独立外交」という日本の次なる航路だった。
この意味で、角栄が種をまき、アメリカが最も恐れた“独自外交の果実”が実ったのが、日中平和友好条約だったのだ。
5億円なんて角栄にとっては「5円」にすぎない
真の平和と、独立は、各国家と友好的な立場を作ることが、角栄の目的ならば、5億円は、角栄にとってみれば、5円の価値もないだろう。
🔻次回予告
ロッキード事件の判決は?
有罪・無罪の境界線、そして角栄が最後まで語らなかった「沈黙の意味」を掘り下げていきます。






